初めまして、当ブログを運営していますりゅうと申します。
私は1986年生まれ、妻と二人の子供と四人で暮らしています。
2023年7月にサイドFIREを達成、現在事業所得構築のために日々奮闘中です。
私自身がどんな人物なのか、私がこれまでどのような人生を歩んで今を生きているのか、こんな私について少しでも興味があるという方は、少し長い文章ではありますが、是非、覗いていって下さい。
幼少期からお金を貯めることが好きだった
私は物心ついた頃からお金を貯めることが好きな子供でした。
毎年正月にお年玉を貰ったら、回りの友人や兄弟がおもちゃを買う中、私は基本的にはすべて貯金。誕生日やクリスマスに何が欲しい、と聞かれても「お金」と答えていました。
当時はそれが良いことだと思っていましたし、本当に面白みのない人間だったと思います。
今振り返れば、この時もっとお金を使って、子供にしかできない「経験」をしておきたかったな、と思うこともあります。
でも、私がもし生まれ変わって、もう一度子供に戻ったら、また親に「貯金しといて!」と言ってそうですか(笑
ともあれ、幼少期からのこの貯金癖によって、この時に貯め込んだお金が後々の資産形成の「タネ銭」となっていきます。
趣味はなんだったか、というと一番に思い浮かぶのは「テレビゲーム」
元々は父親が好きでやっているのを見ていたのですが、いつの間にか私自身がどっぷりとのめりこんでいました。
小学生の頃は本当にゲームばっかりしていたと思います。
当時流行っていたポケットモンスター(緑)は最終的なプレイ時間が1,000時間を超えていましたし、ドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーなどのロールプレイングゲームも大好きで、同じゲームを何週もクリアしていました。
今でも当時やっていたゲームの音楽とかを結構覚えていたりして、子供の記憶力が凄いのか、私が覚えるまでやり込んだからなのかは良く分かりません。
子供時代の貴重な時間をもっと有意義に使っておけば良かった、とも思わなくもありませんが、子供の時からそんなことを考えられる訳でもなく、こればかりは周りの環境にも左右されることなので仕方がないのかな、とも考えています。
大学時代にハマったパチスロで「稼ぐ」
まあ、こんな私でもなんとか大学には進学しましたが、そこで出会ったのが「パチスロ」。
大学の友人に誘われて連れていかれ、初日に当時流行っていた「北斗の拳」という台を打ち、ビギナーズラックで7万円も勝ってしまったのが始まりでした。
もちろん、その後は繰り返しパチンコ店に行くようになり、ビギナーズラックの勝ち金なんてあっという間に消えてなくなり、その後も負けが込んで、トータルで30万円近く負けました。
ただ、私が他の人と違ったのは、収支をつけていたこと、そして小さい頃からストックしていた「タネ銭」が潤沢にあったことでした。
周りの友人はもはやいくら勝っているのか、いくら負けているのかが分からないような状況で、バイトをしてはバイト代をパチスロにつぎ込むような生活をしている中、私はどれだけ負けようと律儀に収支をつけていました。
収支をつけていたおかげで、「自分はこれだけ負けているんだぞ、何とかして勝つ方法はないか」と思うようになりました。
インターネットで色々調べている内に、パチスロは運で勝つのではなく理論で勝つんだ、ということを勉強。勝つには運とかヒキとかではなく、「期待値の高い台」に座り続けることが大切だということに気が付きます。
期待値というのはその台に座ったら理論上いくら勝てる、といったシミュレーション結果を数値化したもので、理論上勝てる台に座り続ければ、試行回数が多くなればなるほどか結果はその理論値に近づきますので、実際に勝てました。
当時は今よりもパチスロ人口は遥かに多く、パチンコホールも多くの集客イベントをしていた為、今よりも多くのお客さんで賑わっていました。
平日の朝でも大きなイベントの日になると、学生やサラリーマン風の人たちも沢山集まってきて、数百人の大行列が出来る店も珍しくはありませんでした。
そして私も大学生で時間もあったことから、時には授業をサボってイベントに参加。立ち回りによって比較的簡単に期待値の高い台を見つけることが出来ました。
その後は月単位で収支がマイナスになることはないぐらいに勝てるようになり、正直、年間の収支は新卒会社員の年収レベルで勝ってました。
結果、大学を卒業する頃には、既に回りよりも明らかに多い貯金が貯まっていました。
FXで手痛い損失を被るも致命傷を負わずに撤退
2008年、私が大学4年生の時にリーマンショックが発生。為替が急激に円高に振れます。
そこで当時私が良く見ていたパチスロサイトの姉妹サイトに「FX」という文字を見つけて吸い込まれるようにクリック、そこからFXにハマっていくことになります。
FX関係のサイトはもちろん、書籍なんかも読み漁り、ドル円、ユーロドル、ユーロ円などの通貨ペアを中期のトレンドに順張りするという手法で売買を繰り返していました。
「損小利大」という言葉があり、損は小さい内にロスカット、利益はひたすら大きく伸ばせ、という意味で、FXで勝つためにはこの考え方が重要だと言われています。
私もその格言に従い、損はなるべく早く切る、利益が出ればなるべく伸ばすことを意識して売買を繰り返します。
私が初めに取引していたのは「1万通貨」という単位で、ドル円で言うと、自分が思っている方に1円動くと1万円の利益、一方、自分が思っていない方に1円動くと1万円の損失が出ます。
初めは思っているのと逆のほうに1円動いたら損切り、思っている方に動いたら利益が大きく出るまでじっと待つ、というスタイルで取引していましたが、結局レンジ相場が長く続き、いわゆる損切り貧乏に陥っていきます。
損切りしてはまた戻り、また損切りしてはまた戻り。今思えばエントリータイミングが悪いのが原因だったと思いますが、ポジポジ病に陥っていたこともあり、ノーポジでじっくり待つことが出来ず、結果損失が膨らんでいきます。
そして、結局損を取り返そうと取引通貨量を増やしてしまいます。
最終的にはここしかない、チャンスだ、と勝手に熱くなって、ドル円で10万通貨の取引をし、1円動いたら損切りというルールも無視。結局は一回の取引で約30万円という額の損失を出します。
この時は茫然となり、完全に自分を見失っていました。
余りのショックにもうFX口座を開けませんでしたが、ここでしばらく間を開けたことでいったん冷静になります。
ドル円は当時1ドル80円ぐらいの水準で、今では考えられないかもしれませんが、今後は1ドル30円になってもおかしくない、みたいな論調も多かったです。
自分の思う方にいけば出来るだけ利益を伸ばす、という格言はあるものの、結局長期的に見てもどちらに行くか分からないようなものを持ち続けるというのは理論的におかしいのではないか、と悟りました。
そして誰かが勝てば誰かが負けるいわゆるゼロサムゲームの中で、プロがひしめく中、私みたいな素人が長期的に勝ち続けるのは不可能なのではないか、ということもこの時感じました。
結局、FXはトータル損失約50万円で足を洗って完全撤退。
当時の私にとっては手痛い金額ではありましたが、資産全体からすればまだ軽傷で、ここで致命傷を負わなかったことが今後の資産形成に生きていくことになります。
インデックス投資との出会い
当時からよく本は読むほうで、書店とかには良く足を運んでいました。
2011年、たまたま書店で投資本コーナーへ足を運んだ時、セゾン投信の創設者、中野晴啓氏の「投資信託はこの8本から選びなさい」という本が目に留まり、即日購入。(現在は「投資信託はこの9本から選びなさい」へ改定)
本を読んでいる内に、世界経済は今後も拡大していき、世界全体で見ると株価は長期的に上昇していくであろうことを勉強し、インデックスファンドの将来性にとても魅力を感じます。
その後すぐにセゾン投信の口座を開設し、セゾン・バンガード・グローバル・バランスファンド(現セゾングローバルバランスファンド)の積み立てを開始します。これが私のインデックスファンド投資の始まりでした。
その後中野さん本人が地元で講演をする、ということで直接本人にも会い、名刺交換をさせて頂いたこともとても記憶に残っていますし、私がお礼のメールを打つと、ご多忙の中わざわざメールの返信を返してくれたことについても感謝しかありません。
その後は、インデックス投資だけでは退屈、というまあよくありがちな理由で個別株投資もスタートさせます。
とはいえ、まだまだ様子見ムードもあったため、資産の大半は現金で、インデックスファンドや個別株投資の金額自体はまだ資産のごく一部にとどまっていました。
本格的にFIREを目指し、不動産投資を一気に拡大
少し話は戻りますが、私は2009年に工作機械に使う周辺機器関係(工作機械アタッチメント)を製造、販売するメーカーに就職し、大学が電気電子工学を専攻していたこともあり、技術部の電装設計担当部門に配属されました。
入社当時はやる気に満ち溢れていた時期もあり、上司に自ら「なにか仕事があれば手伝います」と仕事を求めていったり、電気系の資格を取得したり、上司、先輩の誘いや飲み会にも積極的に参加していました。
同時に心のどこかで、この仕事を死ぬまで続けるのか・・、という悲愴感は感じており、上司の仕事内容を見たり、ある程度自分で仕事が出来るようになるにつれ、その思いは大きくなっていきます。
そして2012年、ある本に出会います。皆さんご存じの「金持ち父さん貧乏父さん」です。
そこで不動産投資の魅力にどっぷりと取りつかれます。
その後は自分なりに不動産投資について勉強、最初は地元で物件を探していましたが、ある不動産コンサルタント会社社長の本を読み、地元での投資は駄目、首都圏へ投資をすべき、という方針に転換します。
今にして思えば、ここで早とちりをして地元で物件を買わなくて本当に良かったと思っています。
そして2012年末、自民党の安倍総裁が当時の民主党から政権を奪取、安倍政権によるアベノミクスがスタートし、今後都市部の不動産価格が上昇することを予想。ここから一気に自分の現金資産を不動産に変えてきます。
目を付けたのは都心の中古区分ワンルーム。当時から区分は駄目、一棟を買いなさい、という論調が目立っており、都心の中古区分マンションが今では考えられないほどの安値で売られていました。
初めに買ったのは新宿駅からも徒歩圏の物件でしたが、金額はなんと700万円台。今では考えられない金額です。不動産コンサルタント会社からの紹介で即決し、そのマンションは現金一括で買いました。
その後すぐに二つ目の区分も現金買い、三つ目以降は銀行から融資を受けて買い、ここからは毎年コツコツと区分マンションを買い進めていきます。
当時は都心区分でも金額が安かったこともあり、銀行融資を組んでもキャッシュフローがある程度は出る状況だったのも良かったです。
銀行の融資状況も今よりははるかに良い状況で、初めに現金で購入した無担保の物件があったこともありますが、対して年収の高くない私に対しても普通にお金を貸してくれました。
この頃からは、このままいけばいつかはFIREできる、そういう思いは強くなっていましたし、同時に本業に対しては、「このまま努力をしても自分は幸せにはなれない」と感じ、仕事へのモチベーションはどんどん低下していきます。
自ら希望して営業部へ異動
2017年、この頃になると株価や不動産価格も上場を始めており、株式、インデックス投資、そして不動産投資の二刀流によって、このままいけばいつかはFIREできる、という確信めいたものがありました。
そして、本業についてもついに行動を起こします。
もはや全く興味の無くなっていた技術部から、営業部への異動希望を出します。
自社製品自体への興味の無さは残るものの、営業部であればマーケティングやコミュニケーション力などを鍛えることが出来るので、どうせいつか会社を辞めるならば少しでも自分が楽しいと感じる仕事、自分の為になる仕事がしたいと思ったからです。
会社との交渉の末、異動希望は通ることになり、晴れて営業部配属となります。
営業部では人との出会いが多く、本当に多くの人に接してきました。
展示会などでは、工作機械や機械加工のことが本当に好きで熱く語る人もいて、色々なアイデアやあれをやってみたい、これをやってみたいとどんどん意見が出てくる人もおり、私は少なくともこの分野ではこの人たちには絶対に敵わないだろうな、といつも思っていました。
仕事内容としては、技術部の時よりははるかに充実していましたし、異動したこと自体は結果的に良かったと思っています。
ただ、製品や業界自体への興味関心の無さは相変わらずで、このまま本業を続けていても私自身の幸福度は上がらないだろう、という思いは変わりませんでした。
ツイッター、ブログ開始、そしてサイドFIREへ
2021年末、これまでは何となく見ているだけだったツイッター(現X)での情報発信をスタートさせます。
何となくやってみようかな、と考えたその日の内に一発目の発信をしていました。
このスピード感が良かったと思いますし、明日から、と言っていたら今頃まだ一言も発信はしていなかったかもしれません。
そしてツイッターで情報発信をしたり、フォローした方のツイートを見ている内に、自分が望んでいるのは本当に完全なFIREなのか、と思い始めました。
もともと趣味は決して多くはないので、毎日今日は何をしようか、と悩みながら生活することが本当に自分の求めていたものなのか。
毎朝散歩をして本を読んで、ゆっくりテレビを見て、それはそれで楽しいでしょうが、それが本当に自分の理想の生活なのか。
頭の中にグルグルといろいろな思いが交差します。
そして自分なりに価値観を整理している内に、自分が望んでいるのは、退職後も自分のペースで仕事を続ける「サイドFIRE」なのではないか、と思うようになりました。
サイドFIREで自分の自由は確保しつつも、社会との繋がりを持ちながら楽しく仕事も続ける、これが理想の生き方なのではないか、そう感じてきたのです。
そしてブログを開設、サイドFIREの「サイド」への模索が本格的にスタートします。
しばらくは本業とブログのダブルワークで頑張っていましたが、2023年2月、会社を辞めて本格的にサイドビジネスの構築に動きたいと感じ、サイドFIREへ「挑戦」することを決断します。
サイドFIRE生活のスタート、私の挑戦は始まったばかり
2023年7月、会社を退職(正式退社は2023年8月末付)し、遂にサイドFIRE生活がスタートしました。
今は、「サイド」部分、すなわち事業所得の構築に向けて日々奮闘している最中です。
事業所得がほとんどない状況でのサイドFIRE。
どうなの、と思うかもしれませんが、これまで築き上げてきた資産がありますし、家族四人とはいえそう簡単に生活に窮することはありません。
それよりも、今は挑戦をする時だと感じていますし、仮にサイドビジネスが育たず、何をやっていくかの目途も立たない状況になれば、一旦就職をして体制を立て直し、改めて「サイド」を模索しながら機を待つ、ということになると思います。
とにもかくにも、私の第二の人生は始まったばかり。
これから波乱もあるかもしれません。
決して順風満帆とはいかないでしょう。
ただそれも含めて人生だと思いますし、一度きりの人生、私は挑戦を選びます。
当ブログでは私のサイドFIRE生活についても引き続き発信をしていきます。